白木峰

目指すは白木峰

 近所の山にしては珍しくなだらかでたおやかな山である。山頂付近は湿原や浮島があり娘のお気に入りの山であるが今回は一人(1台)で来た。

 地元の山のはずであるが、残念ながら富山県側の方がアプローチがよい。県境近くの峠を越え、一旦富山県側に下ってから林道を登り返す。時間的には家から1時間程度だ。山頂付近は富山国体の頃に木道も整備され、優雅に池糖めぐりができる。

 この山を巡っては古くは鎌倉時代から国境争いがあり、昭和の40年代まで県境が確定しなかった。
 自分の持っている国土地理院の5万分の1の地図(昭和43年発行)にも県境の線が入っていない。

 かつては山頂にNTTの鉄塔があり、自宅からの眺めの目印にもなり、目障りにもなっていたがいつ頃からか取り払われている。
 鉄塔のおかげと思うが林道が延長され点検用の作業道が山頂まであるので、自家用車でも山頂近くまで行くことができる。
 途中のゲートに鍵がかかっていてそこから徒歩になり、1時間足らずで山頂だが、ハンターカブで行くとうまくすると柵の横をすり抜けて山頂まで行く事が出来る。

国境論争

 江戸時代の国境論争は、飛騨側の百姓が幕府へ裁定を訴え出た事で表ざたになった。古くから飛騨の入会山(いりあいやま)であった久母須万波山(くぶすまんなみやま)に越中の桐谷村(富山県八尾町)の村人が加賀領だと主張して入り込み、薪・木呂(ころ)を盗伐したとして訴え出たものである。延宝2年(1674年)8月に飛騨側の全面勝訴の形で裁定が下ったが、まさに首をかけた争いで、命がけで争ったものであった。

 今では境界争いと言っても誰もさして気にも留めないが、国(藩)の境の事なので飛騨・越中それぞれの藩主を巻き込んだ一大事件であった。
 
 実はそれ以前から係争の火種はくすぶり続けており、それぞれの藩で交渉はしていたようであるが、江戸表まで提訴してようやく決着を見たという形になっている。

 飛騨と越中それぞれの国(藩)の威信をかけて幕府に訴え出たようで、負けたら命はないものと覚悟していたようである。

 出立(しゅったつ)は水杯(みずさかずき)であったと、記録にあるし、3年後に裁定が下り負けた越中側の当事者は入牢し帰宅したという記録はない。それにその後越中前田藩では関係した家老が切腹をしたとの記録があるし、他にも不審な死が伝説になっている。今に至るまで遺恨が残っているともいわれている。

 飛騨側が金品を江戸へ送って裁定に手心を加えさせたとの話もあるし、もともと天然資源の豊富な飛騨を天領にするために幕府がこの争いを恣意的に裁定をしたとの説もある。裁定の最中に富山藩の藩主が急逝し毒殺の噂もあるのである。

 そんな争いがすぐ身近で、それもその後数百年にわたって尾を引き、つい最近まで繰り広げられていたのである。

朝日新聞地方版のシリーズ「県境」の切り抜きがある。

  • 県境のない5万図
    昭和43年版5万図

  この「県境」シリーズはその後も何回か掲載されていたと思うが、まだ活字が小さい昭和の48年頃のものである。

その中で「河合村」があり、
越中と飛騨の農民が寛文12年(1672年)から3年越しに争い、何度か江戸まで足を運びようやく幕府の裁定が下りたが、再び昭和36年から10年間争った後昭和46年6月に杭打ちをしてようやくにして県境が定まったのである。
3百年前の争いは、楢峠からほぼ北東に伸びる分水線を国境とする越中側の言い分と、さらに4キロ北に寄った白木峰の尾根筋が国境だという飛騨農民の主張の対立。「越中農民が立ち木の伐採に越境している」との訴えから騒動が始まり、最終的にほぼ全面的に飛騨側の主張が認められ、現在の県境に近い形で国境は決まった。
昭和の争いも県境を挟んで伐採をしていた二つの林業会社が林地を巡って「越境した」「していない」と対立して起きた。飛騨側に土地所有権を持つ業者が富山県の業者と八尾町を相手どって提訴。最高裁まで争った据え、昭和45年6月になって境界線が確定した。

 と新聞の記事に書いてある。

 私の仕事の先輩に言わせると、昭和の50年代になってからでも用地買収で県境付近の立会いを行ったが、何度も何度も行い、その国境争いのシコリが残っており、交渉には難儀をしたとのことである。
 
 実は国境騒動(県境騒動)は江戸よりさらに遡ること鎌倉時代からあったと言われている。越中桜井庄安養寺と飛州千光寺の寺領争いがそれであるが詳しい資料は手元にない。

  • 白木峰へ行ったついでに調べてきた



(楢峠)
 楢峠から県境までちょっとした平地が続く。金山平という。この金山平を流れる川は大長谷川(おおながたにがわ)の源流で原山本谷(はらやまほんだに)と名前があり私のお気に入りの釣り場である。残念ながら道路が流れに沿っているので多くの人が入っており、魚がスレているのが玉にキズである。
 そこに加賀藩の隠し金山があったと伝えられている。国境争いは農民の伐採の話になっているが実際はこの隠し金山の利権を巡る藩の威信を掛けた争いであったとも言われている。
 【飛騨国中案内】(1746年編纂)より:二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行きて大峠あり、字【楢ヶ峠】という。
 楢ヶ峠より境谷迄の間を原という、且又、古人の曰く、高麗に……。


(万波)
 金山平を流れに沿って下ると富山県の大長谷(おおながたに)に至るが、現在の県境上に右に折れる林道があり、ちょっとした峠を超えるとそこは万波平に至る。本来は旧宮川村の打保から万波峠を超えて入るのが一般的である。私が小学生の頃に行った時は打保からブナや楢の原生林を登り万波峠を越えると一面の笹原があり、そこかしこに水芭蕉やリュウキンカの咲く湿原があった。その中をとうとうと川が流れていた。釣り氏に言わせるチョークストリームで久婦須川の源流の万波川である。現在は県営の農地開発が進み、また近年は何度も災害にあい往事の面影はない。

 富山県側からみて真南にあるのでこの地名がついたと言われ、江戸時代の国境裁定が下ってから飛騨側で「万波」と読みを変更したと宮川村と合併する前の坂下村誌には書かれている。明治26年春以降は飛騨の万波として正式に開拓農民が入植したが、豪雪と寒さのために昭和14年秋には全村離村した。その後関西電力がほぼ全域を買い上げ電力開発のダムを建設したが、高冷地農業の振興のため県営農地開発計画が策定され、関電から一部の土地を買い戻し、土地改良事業が実施された。実家の隣のオジちゃんを含め数人が夏の間だけ入植し大根やキャベツの栽培を行っている。今でも明治から昭和のはじめ頃の神社の鳥居や石積み階段は残っている。
【飛騨国中案内】では:戸谷村北の方国境の字【萬波】という所へ行道あり、峠越なり、この間にぬの谷、小谷とて二ヶ所谷越えあり、此の間一里有り、峠より左手南の方の山は字そばかと山という山なり……。


五郎左淵の話
 江戸時代の飛越国境争いで活躍した三川原村五郎左は江戸裁定の間は地元で吉報を待っていたが、その後横死している。
 これは、越中前田藩の恨みではないかという伝説がある。

 平成の現在、国道360号線を北進すると旧宮川村巣之内地区をすぎると新しい道路ができ、まさに文童子(ぶんどうじ)トンネルに入ろうとする所に橋が掛かっているが、その橋の橋台の付近に大きな淵がある。ここが五郎左が横死した場所といわれている。

 越中富山藩の復讐で、この淵で五郎左が釣りをしている最中に蜘蛛の糸に顔を覆われ、その後突然体一面に痙攣がきたかと思うと、目はくらみ手足は痺れついに水中に倒れてしまったが、水中の木の根に絡みついにその死体は引き上げることができなかったといわれている。
 越中前田藩の恨みのこもった淵を五郎左淵と伝うそうである。