攀(よじる)

若い頃所属していた山岳会「登攀倶楽部」。京都と岐阜の楽山荘を中心に活躍していました。

http://touhanclub.exblog.jp/i7/

登攀倶楽部京都OBの仲村さんがまとめてくださっています。
ガッシャーブルムⅡ峰の追悼レリーフ

会報『攀』

登攀倶楽部の会報 攀「よじる」はこれまで№1から6号まで発行されている。


 

その他に遠征記録として、「プモ・リ:計画書と報告書」がある。さらに「ガッシャーブルムⅡ峰 追悼報告集」と「ビバークプレイスの想い出」と題して、白山山系「三方崩山」で遭難した水谷雄二君の遺稿追悼集がある。


 この水谷君の遺稿集発行以後、会の活動は個人中心になり、次第に倶楽部としての存在価値が薄くなり、会報の発行はなされていない。でも私は登攀倶楽部はつぶれたのではない、会費が集まらなくなったのでみんな勝手に活動しているだけなのだと考えている。

 また、世の中全体がアウトドア志向は盛んでありながらアルペン離れの傾向があり、趣味の多様化とか、家族が出来たとかで、ほとんど勝手に好きな山へ行っているので、ご多分に漏れず社会人山岳会の長期低迷化は続いており、我が倶楽部も記録集を出すまでもないというのが現状でもある。
 会としても若干みんなが年をとってきているのは事実であるが、最近の山岳界全体もそのようなことが言われて久しいので時流に乗っているという言い方もできる


 でも実際のところは休会久しい会の最後の事務局の一員としてずっと寂しい思いをしてきたのも事実である。

 まあ細々とではあるが、創立メンバーである青木さんや水野さんの人生の節目節目で、それぞれをダシに酒を飲むことは続いている。とは言っても、企画の方は現役の前衛山岳会でかつまた酒飲み集団である無宗楽生会の方々と当倶楽部の名誉(永年)事務局長の加納さん夫妻のこまめさに頼っていて、我々はそのおこぼれで顔を合わせるのが本当のところではある。
 
 ところが、かの青木さんがつい最近もスイスへ渡り無宗楽生会の方々とツエルマットで山登りをしたとかしなかったとか。ワインをたらふく飲んだ後か前かは聞き漏らしたが、またしても強盗に会い、羽交い締めにされながらも果敢に戦ったが、結局は身包みはがれてしまったらしいとか。それでも元気に帰国したと言う武勇伝を聞いて、事務局員を自認している私も、何かもっと積極的に山の活動をしなくてはという気になった。

 登攀という、スポーツとしてより厳しいアルピニズムを追求するという目的に絞って、単なる同好会ではなくそれ以上のつながりを求めたのが我々の倶楽部。岩遊びしか出来ないクライマー、岩登りの出来ないアルピニスト、いろんな人間がいる中で、既成の山岳会そうろうではなく、あくまでそれぞれ個人の山行を重んじ、お互いに技術と人間性を高めるために倶楽部を作ったんだという思いを、私はガッシャーブルム遭難対策の事務局にいたとき先輩から耳にタコが出来るくらいに聞かされてきた。

 我々の倶楽部は、たまたまその時点で山行によく行く人が会費を払い、会合に出てきて現役だといい、酒の会合にだけ出てくる人がOBと言っていたのではないかと思う。倶楽部の姿勢は常に「来るものは拒まず、去るものは追わず」の姿勢で来たのではないかと考えている。
 また、それぞれの会員がユニークなものを持ってアルピニズム精神に基づいた登攀をしてきた。そして現役で活動しているものを会員に、OB的なものを会友に。個人性を尊重した、強い横のつながりによる団結。そんなものが特色として出てきているはずだ。
 

 ここへきて、皆んなから会費を徴収してまで会報を発行するということは不可能であるが、幸いなことに世の中IT時代で、ほとんど金をかけずにみんなの記録をまとめることが出来るようになった。

 ホームページなんて若干薄っぺらい感じがしないでもないし、そもそも今でも前衛的な岩登りを続けている仲間がいるなんていささか信じられないが、本当にいるようではある。まあ、そんなに固く考えないで山行記録や、登攀や山の理論概論、近況報告でもいいと思っているが、皆さんがぼちぼちと掲載していければよいのではないか。そんなふうに思っている。

 幸いなことに我々は例年追悼山行を続けている(私だけか?)。山行などと言うのはおこがましいが、今年(2001年)も明神へ行って来た。残念なことに今年は一人だったので、お経を知らない私は無心(神)に拝んできただけであった。去年は川島さんがいたので、長い長い般若心経を聞きながら遠いカラコルムと三方崩山に思いを馳せた。そして、川島さんが山ほどの饅頭とビールやウイスキーを置いてきたし、いろいろ花瓶やら水の入れ物やら置いてきたのに、今年その形跡があるのはウイスキーだけで後は我々が帰った後すぐに猿どもが失敬したような風であった。

 梓川の流れはかつてとは様相を変え、川原にあったミヤマモジズリの群落も随分と少なくなっていた。徳沢まで足を伸ばしてみたが、数年前の豪雨で道もまた変わっていた。2263峰のS字ルンゼはずっと前に崩壊しているし、屏風の1ルンゼはとうの昔に崩落したようだ。今年は上宮川谷も荒れていた。
 
 でも明神Ⅴ峰の東南カンテは相変わらずそそり立っていたし、明神池へ注ぐ谷のイワナは元気で虫をついばんでいた。菱形岩壁は静かにそびえていたし、明神の養魚場は一人の登山者の訪れもなく、静寂そのものであった。